何歳で実家を出るべきか?


ひとは何歳で家を出るべきでしょうか?

海辺のカフカのなかではカフカは15歳で家を出て、その年齢から早すぎても遅すぎてもダメだと言っています。

海辺のカフカを読んで、この小説を好きだなと思った人の中には、うらやましいとおもった人がいるかもしれませんが、15歳というのは、家出したくてもなかなかできない年齢だと思います。

この小説のカフカの場合、父親から「呪い」のような言葉をかけ続けられていて、その「呪い」を実現させないために、家出をします。

現実世界でも肉体的・精神的虐待をそのように受けていれば、15歳と言わず、もっと早くに家を出るべき人もいるかもしれません。

ですが、そうでない場合はどうなのでしょうか?

例えば、全寮制の高校などに入学すれば、早くて、16歳で実家を出る人もいるかもしれませんが、それでもかなり早い方だと、言われるのではないでしょうか?

一方、大学に入学するのと同時にひとり暮らしを始めるのは、そんなに珍しいことでは、なくなってきます。大体、19〜20歳くらいでしょうか。

ではいつになると遅すぎるでしょうか?

30歳くらいだと、「そろそろ家を出なくては」と自分自身でも思いはじめるかもしれません。

自分の経験になりますが、大学に入学するのと同時にひとり暮らしを始め、経済的には自立は出来ていませんでした。

ですが、それでも、ひとりになることで、精神的に孤立することが、影響を及ぼしました。

ひとりになることのメリットは、すべて自分でやらなくてはいけないという意識に変わることだと感じました。

協力しあった方が、はかどることもあるけれど、「解決するかどうかは、結局はすべて自分次第だ。」という感覚を一度ひとり暮らしのときに得たのは、今も生かされているようにおもいます。

たとえ、ひとり暮らしで経済的に親から自立できていなくても、その後誰かと暮らすことになるにせよ、とにかく人生の十代、二十代で一旦ひとりになることは、得るものが大きいとおもいます。

 

 

 

ブログの購読の登録はこちらから!

 


 

 

follow us in feedly

 

 

 

 


ねじまき鳥クロニクルの間宮中尉の話【ネタバレ】


村上春樹のねじまき鳥クロニクルは好きな小説の一つなので、語りたいとこはいろいろあるけど、今日は間宮中尉の話について書きたいと思う。

ねじまき鳥クロニクルのはなしを誰かとするとき、必ず話題にあがるのが、カワハギのシーン。

「なぜあのシーンがあったのか?」

「あの話は好きだけど、あそこのシーンは残酷すぎてだめだった」

などと、友人とはなしたことがある。

最初読んだ時にはカワハギがあまりに強烈すぎて、そこしか考えられなかった(というかめっちゃ吐き気がしてそれどころではなかった)。

2回目でやっと気づいたのだけど、不思議なのは明らかにカワハギのが読者にインパクトを与えているのに、カワハギは井戸に捨てられる前の序章的な扱いで、間宮中尉があくまで強調していて、人生に影響を与えたといっているのはそのあと、捨てられた井戸のしたから見上げた太陽だというところ。

間宮中尉は井戸から見た太陽が強烈すぎて、そのあとの人生で生きる実感のようなものが失われてしまったといっていた。

結局のところ、人間の精神はひどいことだけとかいいことだけだと対してインパクトがなくて、物事の落差が人間にとっては一番意味を持つんだといいたいんじゃないかと言いたいのかなと思った。

徐々にならされてしまうとどんな環境にも人間はなれてしまう。

その代わり、たとえ”太陽を見た”というだけのイベントでも、その前に酷いイベントがあれば、それがそのあとの良い出来事をいいと思えないほどに強烈な”生の体験”になってしまうのかもしれない。

 

 

 

ブログの購読の登録はこちらから!

 


 

 

follow us in feedly

 

 

 

 


大阪のおばちゃんがあめちゃんを食べない理由


私は関東育ちなんだけど、西のほうの親戚が結構多くて、その文化の違いに結構驚かされながら、幼少期を過ごした。

なにより、西の人は人に対する働きかけがすごく多くて、黙って静かに座っている人を絶対そのままほおっておかない。

そういう雰囲気に象徴されるのがあめちゃんだと思う。とにかく飴ちゃんをだれかにあげたり交換したりしようとする。

だけど、大阪の飴の消費量って、全国ワースト3位とからしい。

大阪のおばちゃんといえば、バックやポーチに常に飴が入っているイメージだったのでこのランキングは誰にとっても衝撃なんじゃないんだろうか。

つまり、大阪の人は食べずに飴をひたすら人からもらったものを他人に横流ししてるってことらしい。

たしかにそれだけでも十分面白いんだけど、こういうコミュニケーションが文化になっている大阪ってうらやましいなと思った。

関東だと、旅行に行った時にはお土産買ったりするけど、普段お菓子やり取りすると、お返しが気になってしまったりして、逆に迷惑なんじゃないかと気になってしまう。

バレンタインデーのともちょことかが最近人気なのも、こういうちょっとしたプレゼントをあげると人間関係にすごくいい影響があるから、うまく使おうとしている風潮の現れなんじゃないかと思う。

その点、”飴ちゃん”は期間限定でもないから、常にちょっとした会話のつかみになるし、飴をあげるとして決まっていれば、ただ横流しするだけでお金はかからない!(倹約家らしい大阪人らしい?発想かも)

西のあったかい雰囲気が生んだ、すごく便利なコミュニケーションツールだなと感心してしまった。関東にもこういうのできないかなあ。

 

 

 

ブログの購読の登録はこちらから!

 


 

 

follow us in feedly

 

 

 

 


脂肪の塊を読んで


この物語は馬車に乗り合わせた人たちとその馬車を通すまいとする関所の人間の駆け引きを描いている。

貧しいもの、豊かなもの
太ったもの、痩せたもの
被害者と加害者、
利用するものとされるもの

などといったあらゆる対比が展開されている。

題名にもある”脂肪のかたまり”というのは、特にうえている時には、ある瞬間どうしようもなく魅力的な2つの事柄を象徴しているのかなと、思った。

1つ目は冒頭の馬車の中で、飢えた同乗者たちを魅了するかごいっぱいの食べ物。この馬車には上流階級のものと、下流階級のものが乗り合わせていたけれど、食べ物を持っていたのはいわゆる下流階級と言われるような職種の人間だった。けれど、みんなが飢えることに身分は関係ない。食べ物を持っている人間が一番魅力的な立場になることの表現、とりわけ飢えている人の表現が秀逸だった。

もう1つは、馬車に乗った人の1人でもあり、関所の責任者に目をつけられてしまったまるまると太っている娼婦の女性。結局、周りの後押しのせいで売春をすることになってしまう。日本では痩せた女性が、もてはやされる傾向があるけれど、国際的には、特に食糧難になりがちな国では太った女性がもてはやされる傾向があると聞いたことがある。この小説の時代背景もそういった設定だった。おそらくこういう場合、本能的に、好まれる体型なんだと思う。

かなり短い話だけど、極限に置かれた時の人間の振る舞いが緻密に描かれ、色んな対比があることで登場人物の個性が際立っている印象深い本だった。

 

 

 

 

ブログの購読の登録はこちらから!

 


 

 

follow us in feedly

 

 

 

 


買うと高いアロマディフューザーを手作り


アロマテラピーに昔からはまっていて、ポットで熱するタイプやアロマキャンドルを家で炊いたりしていたんだけど、火を使うとずっと見ていないといけないから、若干めんどくさいなーと思っていたのですが、アロマデフューザーならばほったらかしでいいなと思っていたのですが、お店で買うと高い・・・。

そこで家で作ることにしました。

必要なものは瓶!

口の細いものにしないと表面からどんどん揮発してしまうし、百均のはいまいち気にいることができず・・・探していたところ下の瓶を500円くらいでゲットしました。

 

IMG_0946

 

この瓶の中に無水エタノール(30ml)とアロマオイルを適量(50~100滴)入れます。揮発を緩やかにしたい場合は、ベビーオイルを入れます。

IMG_0947

 

 

そこに百均で買ってきた竹スティックをさします。本数が多いと香りが拡散するのが早くなります。

スティックに色を塗ったりすると、お店で売っているような見た目になります。

もちろん好きな香りのオイルを使ってもよいですが、レモングラスやミント系の香りを使うと虫よけにもなるそうです。

 

 

 

 

 

ブログの購読の登録はこちらから!

 


 

 

follow us in feedly